テレビやインターネットのニュースを見ていると、たまに「プロ野球選手○○選手に第一子が誕生しました」といったニュースが報じられていることがある。ファンにとっては喜ばしい話かもしれないが、果たしてこれは“ニュース”として報じるほどのことなのだろうかと、ふと疑問に思うことがある。
もちろん、人が生まれるということは素晴らしいことだ。それが有名人であろうとなかろうと、命の誕生は祝福されるべき出来事だ。本人や家族、親しい人々にとっては、大きな喜びに違いない。ただ、それがテレビや新聞といった公共のニュース枠でわざわざ報じられることなのか、という点においては、慎重に考える余地があるのではないか。
ニュースとは、本来社会にとっての公共性や影響力を持つ出来事を伝えるものであるべきだ。例えば、政治・経済・災害・事件・国際関係など、私たちの生活に直結したり、関心を持つべき重要な情報が優先されるのが一般的だ。では、ある野球選手の家庭内の出来事が、果たしてそのような“公共性”を持つ情報なのだろうか。
「いや、スター選手のプライベートには皆が関心を持っているのだから、報道する価値はある」という意見もあるだろう。確かに、アイドルや俳優、スポーツ選手など、有名人の動向を知りたいというニーズは常にある。だが、それは本来エンタメニュースやファン向けのコンテンツであって、一般ニュースの中で流す内容とは少し違うのではないかと思う。
しかも、こういった報道が繰り返されることで、「テレビに出る人の人生=社会的に価値がある出来事」という誤解を生んでしまう危険性もある。本来ならば、無名の人の命の誕生にも同じように価値があるはずなのに、有名人だから報じられるという仕組みが、“情報の価値”の基準を曖昧にしてしまってはいないだろうか。
もちろん、全てのニュースが堅苦しいものである必要はないし、時には温かい話題も必要だ。しかし、それが日々のニュースの「主役」となってしまうと、本当に必要な情報が埋もれてしまうのではないかという懸念も残る。
私たちは日々、多くの情報の中で取捨選択をしながら生きている。その中で何が本当に知るべきことなのか、何が“ニュース”なのか。こういった出来事をきっかけに、今一度その基準を問い直すことも必要ではないだろうか。